M ふろんてぃあタウン工房を設立する時、ビクトリア山プロジェクトに取り組むためのバイブルにしようと作成したレポート「フロンティアまちづくり読本」は、以前髙橋さんの呼びかけで昔の住宅公団OBの仲間が集まり、分担して書いた「ニュータウン物語」がベースになっています。
今日のインタビューの話のネタ本として持ってきたのは「ニュータウン物語」最終原稿の合本。2005年の多摩ニュータウン新住事業完了に合わせて出版しようとしていた原稿で、表紙右上に2006.8.31の日付が書いてあります。
K 「ニュータウン物語」の出版は、私自身の力量不足から実現できなかったもので、あまり思い出したくない負の業績?といえます。しかし『フロンティアまちづくり読本』のバイブルにしていただけたことは、とてもありがたいことです。
「ニュータウン物語」執筆のきっかけは、1990年代にさかのぼります。当時、人口減少社会の到来を告げる「1.53ショック」にはじまり、経済社会の破綻ともいえる「バブル崩壊」、エコ社会に舵を切る「リオの環境サミット」、そして都市や国土の脆弱さが見せつけられた「阪神淡路大震災」など、経済社会の大転換を迫る出来事が立て続けにおきた時期です。とりわけ地域づくりやまちづくりの分野では、“成長する都市化社会の終焉”が語られ、新市街地の開発をやめ、既存の都市ストックを活かした都市再生・地域再編にシフトさせる、つまり人々に意識転換を迫るものでした。
一方、多摩ニュータウンは、私自身が最初に担当した開発で、これによって「得たこと」と「失ったこと」をしっかりと総括せねばならないと考えました。当然、自慢すべきことも沢山ありますが、どちらかといえば「失ったこと」や「失敗したのでは?」と思うこともあって広くニュータウン開発を評価したいと考えたからです。
M 最初から負の業績の話をさせてしまって申し訳ありません。(笑)
表紙の日付の下に鉛筆書きで「2010年3月5日解散会」と書いてありますが、執筆メンバー全員が新宿で髙橋さんにご馳走になり、出版中止はこの日で決着済です。(笑)
今髙橋さんから、「ニュータウン物語」では「失ったこと」や「失敗したのでは?」と思うことなどに重きを置いて、広くニュータウン開発を評価したいと考えたというお話がありました。
広く評価することに繋がるかと思いますが、「フロンティアまちづくり読本」では、日本のニュータウン開発の歴史に「全総」と呼ばれた日本の国土利用計画の流れを重ねて考えてみました。一番感じたのは、「全総」が掲げた国土の均衡ある発展は実現されず格差が拡がってしまったこと。ではどうすれば良かったのか?もし一番貧しいところから手をつけていたらどうだったろうか?
「ニュータウン物語」の執筆メンバーの一人だったアルテップの荒川俊介さんの原稿にある「ニュータウンには再生でなく転生が相応しい」という言葉から、「ニュータウン転生レポート」と頭につけた「フロンティアまちづくり読本」を発刊し、ミャンマーだったら、ビクトリア山のあるチン州が最初に手をつけるべき場所だという分析図を最終ページに載せました。「まちづくりの資料集のような本だけど、ふろタン工房が何を目指すかはまえがきとあとがきを続けて読んでいただければわかります」と話しながら会員拡大活動にも使っています。
若い頃から髙橋さんは多摩局で公団のニュータウンの仕事をしながら大学の講師もされていました。そのころから将来は研究者になろうと考えておられたのですか? 最初はどのような研究テーマは関心を持たれていましたか?
K 周囲の人たちから「髙橋君は、アルバイトをしている!」とよく批判されました。(笑)
大学への道は、当然はじめからあったわけではありません。また大学への転進組の例を多く知っていますが、そう簡単なことではありません。「名刺を二枚もつことは悪いことではない」と当時から思っていましたが…。
いずれにしても室井さんもご存知のように職場の上司は後に筑波大学に就任される川手昭二先生のような学才豊かな上司がおられました。現に、多摩局の計画課は川手学校、名古屋の高蔵寺では津端学校(『人生フルーツ』で著名な津端修一先生・英子夫人)などといわれていました。また職場の先輩は、もちろんのこと同僚は皆、学際的な方々で、そうした人たちの影響を大いに受けました。
同時に私自身の遺伝子にはふるさと長岡を舞台とした『米百俵』(山本有三著)の精神が語り継がれていました。戊辰戦争で被災したまちの復興策として人材育成を掲げたエピソードをしょっちゅう聞かされていました。
最初の職場は南多摩開発事務所(1966年に開発局)、新進気鋭のプランナーが集められ日々計画論が交わされ、刺激的な職場で自由で明るい雰囲気に包まれていました。初めての仕事は未曾有の都市化に呼応して進められた草創期のニュータウン開発に係る計画立案でした。私に与えられた仕事は、3つです。先ずニュータウン開発に伴い新たに多摩地域に敷設される幹線道路網の決定です。次いでセンター地区の基本構想の策定、その成果は1967年に取りまとめられセンター地区の骨格となる幹線道路が確定します。そして3つ目が一日も早く急がれていた最初のまち開きのための諏訪・永山の近隣センターの建設でした。
1970年頃の住宅公団南多摩開発局
M 私は70年に住宅公団に入り、2年半工事の現場監督の仕事をしてから計画課にいきましたから、いきなりブレーンストーミングなんかやらされて何となく研究集団的な雰囲気の職場だなと思いました。まちの風景が毎日変わっていくような多摩ニュータウンの職場を楽しみながら、いつの間にか13年3か月もいることになりました。
K 50年前に携わった私の3つの仕事は大方、計画通りに成就し“地図”に刻まれ今、この目で確認できます。誇らしくもあるが反省すべき点も少なくない。ひとつだけ付言するなら私たちが進めた都市インフラの整った緑豊かな生活環境の整備は誤りなく自慢できる。しかしこれと引き換えに失ったものも少なくはない。例えば天与の地形、水やみどりといった自然資源、それぞれの土地固有の歴史資源は少なからず壊したといえなくもありません。これからの都市づくりではそれぞれの土地がもっていた独自の個性を再考し、それを真に活かすことが不可欠な時代だと思います。
考えてみれば当時三十歳にも満たぬ若造に良くぞ、このような大きな仕事を与えてくれたものだとつくづく思う。若々しい時代の空気が私たちの気概をも育んでくれたように思います。感謝せねばならない職場であり先輩や同僚たち、様々なことを経験させていただいたことが、その後の大学での研究テーマにも結びついたと思います。
M 公団を退職されてからも エコ地域デザイン研究所のレポートをいつもお送りいただいていましたが、ある時娘さんが出版された本と一緒に、久子さんが取り組んでおられる「日本のこころ文化講座」の案内チラシが送られてきました。そこには、「旧暦で楽しむ年中行事と室礼、行事のこころを形にして日本人のこころを見る」と書かれています。この活動を始められたキッカケは何だったのでしょうか?
H 「室礼」の家元のようなところで十数年学び、もっと広めたい一般化したいと仲間7人で「ゆずり葉の会」をつくりました。現在、会員は300人、講師をやったり、ゆずり葉通信(年4回)の発行や出版を手がけたりしています。もう5年目になります。みんな70歳代を超えた人たちで頑張ってやっています。他方3年前から日本文化興隆財団で講座をやっています。勤め帰りの方々も通える夜の時間帯に来てほしいと思ったからです。また若い人たちにも伝えたいと、時には求めに応じ大学や高校でも教えています。
M 専門にされていた造園の仕事とも何か繋がりがありますか?
H とてもあります。八王子みなみ野シティに平成元年からお世話になり、造園の初期段階で環境共生のまちづくりをやっていました。公団がハードだけでなくソフトをはじめて取り入れた地区ということで、地元の人とニュータウンに移り住んでくる人たちとの間で新たなコミュニティをつくることがテーマでした。緑をたくさん残したために維持管理大変だということで地元市は受け取れないという姿勢でした。そこで新たに住む人たちが使いながら保存していこうということで、「みなみの自然塾」を立ち上げることになりました。私は当初、工事課で樹木の保全とかをやっていましたが、自然塾を担当し事業計画課と一緒にやることになりました。自然塾を担当した数年間は、大変貴重な期間となりました。
M 私が公団の八王子開発事務所でご一緒だったころの話ですね。
現在の㈱URリンケージの前身の㈱都市開発技術サービスが、1997年4月に発行した「創立20周年記念誌」を2冊目の話のネタ本として持ってきました。久子さんが記念座談会に出席されてみなみ野自然塾スタートの頃の話をしていますが、最初に造園の道を進もうとされたきっかけは何だったのですか?
H 技術サービスに入る前は、池原謙一郎先生(筑波大教授)の環境計画研究室にいました。いろんな建築家や公団の人もたくさん来ていました。それで主人と知り合りあいました。結婚して仕事をやめましたが、植物をもっと知りたいと、植物観察会や植物の絵を学んだりし、いつかはまた家から出たいという気持ちがあり、出るなら造園のような仕事にとずっと思っていました。そうなれるよう子育ての間やってきました。そうした折り造園職がいないからこないかと声がかりました。いろんなことがつながって、全部いきているという感じで幸せです。
M この記念誌の座談会には、このインタビューの聞き取りメモ担当の迎尚子さんも久子さんと一緒に出ています。髙橋賢さんは当時技術サービスの研究所長。何か本当にいろいろとつながっていますね(笑)
みなみ野自然塾は、公団もスタートから力を入れていました。
H 自然塾をどのようにやっていくか? 地元の人たちのノウハウをいただこうと、一年間の暮らしの様々を見させてもらい、いろんなことをやってきました。そういうことが大好きなんです(笑)。
ある日、地元の農家の方が、「これから雑木林に入るから一緒に行かないか」ということでついていきました。そうしたら、雑木林に入る前に、お米とお酒を供えて祈るんですね。「これからここを使わせていただくのでよろしくお願いします」と土地に踏み入る前に挨拶をするのです。ものすごくショックを受けて、日本人ってすごいなと思ったんです。西洋では自然を敵と考え征服すべきだけれど、日本では共に一緒に共生すべきとすることを初めて目の当たりにしました。こうしたことを私は知りたいと思いました。
自然塾では、お米づくりから畑、鳥観察、植物観察など、暮らしのいろんなことを教わりました。例えば取れた稲穂で、お正月飾りも作らせてもらいました。山の中にはリースを作る材料もたくさんあって、染物もやったり。沢庵づくりやいろんな料理の方法なども教えてもらいました。塩だけのおにぎりのおいしさなどそこで知りました。
M みなみ野自然塾は、今でも活発に活動してますね。公団の仕事でも長くお付き合いがあったリブアソシエーツの永尾東さんも中核メンバーで、去年の秋の現地でのイベントに誘われて行ってきました。
H 造園やみなみ野で学んだことがすごく今に生きています。室礼をやる人は、テーブルコーディネーターなどインテリア関係の人や、民族学関係の人などが。そういう中で、里山でお米づくりなどの実践が高橋の強みだと皆さんにいわれました。実際、里山や造園をやっていたことが深みのある理解となります。室礼を通して「日本人って一体何か」が一番知りたかったのです。それを知ることができる、それがとてもうれしかった。
室礼をはじめて3年目に、コミュニティづくりを仕事とする人から、「室礼を通してマンションのコミュニティづくりをやってほしい」と依頼されました。南千住の620戸の大規模マンション。管理組合からお金が出て、クラブをつくり2005年にスタートしてはや13年。今ではお住いの方々が自主的にできるようになったので今年から引き継ぎました。マンションのホールに室礼コーナーを設け、毎月、その月の行事に併せたしつらい(飾り)をしています。外から来た人たちもこのマンションは季節感があっていいねと思ってくれているようです。マンション内部のしつらいのほか時には、講座も開き興味のある人には子どもたちも連れて外に行事を見に行くこともあります。日本人が古来からやってきた暮らしのいいものを、例えば門松と注連飾りなどは絶対定着させたいものです。南千住では私のたずさわる「彩事季」でお祭りに提灯も出したりしています。こうしたことが家の中の室礼からまちづくりへとひろがるひとつのカタチだと思っています。南千住あたりでは近年マンションが増えましたが、「おかげで門松をおくところが増えた」と鳶の方に言われた時は、まちづくりに貢献しているのかなとうれしく思いました。
H 造園を学び、環境保全や里山文化の伝承に携わるうち、自然と共生し感謝する日本の伝統行事に魅せられ旧暦の大切さを知り学びました。
太陽と月と地球がつくる自然のリズムを取り入れた旧暦(太陰太陽暦)は種蒔き、田植え、収穫と時を教え、その都度儀礼や祭りが行われます。自然への畏敬の念を心や体で現す、これが年中行事となります。同時に人々相互の絆を育みます。
この暦は明治の改暦で失われた。何千年にもわたり使われ日本人を作り上げてきたのです。自然の摂理とは関係なく機械的に時を刻む現代の暦は効率的で無駄のない活動を促し豊かな生活を手にしました。しかしほころびも生じています。どちらか一方に偏るのではなく、両方の良さを取り入れることで人々の暮らしも変わっていくのではと思います。
M ミャンマー観光では必ず何処かのパゴダ(仏塔)に案内されます。そこには生まれた曜日の守り神が祭られていて、その守護動物の像に水をかけながらガイドさんに「八曜日」占いことを教わり日本の干支を連想します。干支は十干十二支で今年はナニ年とか云うけど、ミャンマーの守護動物は週、それも水曜日を午前と午後に分けて八曜日、水曜の午前は牙のある象・午後はない象です。ミャンマーの八曜日占いは多くの人たちの生活様式・ひとつの文化になっています。
「旧暦で楽しむ年中行事と室礼」の活動の、神々への畏敬の念とかお祓いとかが占いに通じるような感じがし、何か交流できそうな気がしています。
H 西暦を採用しても、旧正月を祝う習慣を残している国は中国・韓国・ベトナムなど東アジアにはありますね。今年の旧正月は来週2月16日ですが、ミャンマーはそれとも違って4月に1年のお祝いをするのだそうですね?
M 4月に行われる水かけ祭りですね。ミャンマーは日本のような四季がなくて、4月・5月は乾季が終わって雨季に向かう酷暑季、水をかけあって1年の終わりを清めて、ビルマ歴の新年を迎えます。今年の正月は4月17日、日本でも毎年4月に日比谷公園で在日のミャンマーの人たちの水かけ祭りを行っていて今年は4月1日、屋台が出たりします。
旧暦で楽しむ年中行事と室礼の話が、マンションのコミュニティづくり・まちづくりの話になり、時代背景に注視した生活空間・都市空間づくりに取り組んでおられる髙橋賢さんの研究と堅くつながるような気がするのですが…?
K 家内がライフワークとしてやっている「年中行事と“しつらい”」は、すたれそうでしたが最近は復活しつつあるようですね。それぞれの土地ごとのお祭りや伝統行事などは、それぞれのまちや都市・地域の個性です。家の中の「しつらい」が街中へとひろがる、まさに都市計画の研究テーマです。
日本の伝統行事を家の中だけでなく、まちなかでやるべきではないかと思っています。雛飾りとか七夕とか。大いにまちなかでやるべきです。クリスマスツリーはたくさん飾られているのに、門松を置くところが少なく寂しい限りです。同じく七夕祭りも地域によって異なります。地域の個性がなくなったのは、伝統行事の継承力にも関係していように思います。こうしたことをぜひやってほしいですね。
家の中の“室礼”から“屋外の室礼”へ。それぞれの土地の伝承・しきたりを再興する地域やまちの個性づくり、コミュニティの育成が、今、とても重要かと思います。
M 3冊目の最後のネタ本が1994年9月発行の都市づくりパブリックデザインセンターの機関紙「都市+デザイン」のvol.9。UDCの成長期、私が在籍していた時に発行したものです。現法政大総長の田中優子さんが「私の好きなまち」というコラムページに「水があるまち 水が溢れるようなまち…」を書いています。
今はいつも着物姿の田中さんですが、若い頃のフランス人形のような写真が載っています。
髙橋さんが取り組んでおられる水辺都市の回廊づくりの原点かなと思って持ってきました。
K エコ地域デザイン研究所の主題は、水都学の第一人者、陣内秀信先生(法政大学教授)がリーダーで進めてきた20世紀失いし“水辺都市の再生”です。当初は“何故、水辺か”と思っていましたが、徐々に奥深いものを感じ、日本人の暮らしの源、生活に密着した“基本インフラ”だと強く認識するようになりました。
江戸から明治に変わり、近代化が至上命令の世の中、舟運交通からモータリゼーションへの転換で水と人間との関係が揺らぎ激変する。瑞穂の国と称されてきたように日本人の暮らしと一体化した水系や水辺空間から日本人は疎遠になってしまった。
M 「基本インフラ」という言葉から連想しての話ですが、ミャンマーと日本の国のインフラを比較してみると、ミャンマーも日本も南北に細長いカタチだけれど、面積はミャンマーが日本の倍で人口は日本の半分くらい、日本は他民族といってもアイヌ民族と琉球民族くらい、全くの島国で南北に背骨のように山脈通って太平洋側と日本海側それぞれに基幹軸が整備されて経済発展。ミャンマーは海に張り出した南の部分を除くとタイ・ラオス・中国・インド・バングラデシュに囲まれ100を超える多民族国家で中央を貫くイラワジ川という水辺空間をよりどころとして発展してきた国。不思議なくらい対照的な凹凸なカタチのインフラ、重ね合わせてみたくなる位です。このような国こそお互いの良さを取り入れて絆を深めた友好国になるべきではないでしょうか。大国とばかり付き合おうとするのではなく…。
NPOをつくってまだ4年で、最初からあまり大きなことも言えませんから(笑)、先ずは「ビクトリア山」と「御嶽山」を友好の山・姉妹山にと発信しています。
ところで、日本の身近なエコ空間構想で、賢さんが今実現を目指して力を入れて取り組んでおられることなどご紹介ください。
K 21世紀は、これまでお話しした失いし価値ある資源に注目しています。例えば人口減少社会に対応し、都市農地や地形と一体の樹林地の保全回復です。また都心部では特に歴史文化的遺産の可視化などです。私はこれを「歴史的な環境・文化インフラ」と称し、与えられた残りの命をその再生に捧げたい(笑)などと考えています。
M お二人がそれぞれ次世代に残したいと考えていることを伺ってまとめにしたいと思います。久子さんの取り組んでこられたことは、もうかなり娘の麻子さん引き継がれているようですので、麻子さんが出版された本のPRも一緒にお願いします。
K 私の生まれ育ったふるさと長岡のこと、また東京のまちの変化などと関係づけ「私史」というカタチで取りまとめてみたいと思います。具体的には、長岡ペンクラブ発刊の機関誌『Penac』(ペナック)への投稿を通してふるさととの交信を続けある段階で集大成するつもりです。今回のテーマは、1960年代にふるさとを後にした私たち世代の終の住処の獲得過程を『東京移住者の住まい記』としてまとめました。半世紀におよぶ居住歴から東京の都市成長や仕組みの変化との関係を考察しました。今年6月頃に発刊の予定です。先ずは子供たちや孫たちに読んでもらえればと考えています。
H 娘は、暮らしを大事にするという考え方で、日々の食生活とか環境にやさしい暮らしとかに取り組んでいます。室礼も私から学んでいて孫たちも一緒にやっています。本の中でも室礼に触れている部分が多々ありますが、私から孫に伝えたいことでもあります。室礼はそもそも世代を越えてつなげる、また家庭から家庭につなぐものです。現在では、核家族化でつながりが薄くなりましたが。では、どうつなげるかです。またさらに広がりを持たせるにはどうするか。早い話、横に、つまり興味のある人につないでいけば良いわけです。私はそのつなぎ役を担えればと思っています。雛まつりにはお雛様はもとよりいろんなものをつくっていますが、それも本に載っています。尚、詳細は、ひぐまあさこ著、『お母さん仕事』や『ひぐま家ごはん日記』をご覧ください。
いずれにしても伝統行事は喜びの表現です。今まで無事に暮らせた事への感謝とこれからもよりよく暮らせるように祈ることかと思います。
室礼という形で行事を行う中で、日本人の持っている自然への恐れと優しさ、季節を大切にする繊細さなど、自然と共にあるという考え方が基本です。雛祭りでのお雛様を一緒に野山に連れ出し「雛の国見せ」として人間と同じようにもてなすこと。先祖を迎え一緒に一晩中踊る「盆踊り」、生き物は人と同じと考え鯨や魚の法要を行う。「日本人に生まれて良かったなあ」という思いが致します。何千人も住んでいる大きなマンションで、お月見の室礼をロビーにしつらえた時に、お年寄りがその前で手を合わせておられたと報告を受けました。手を合わせることのできる人に自分も含めてなれるよう、そして手を合わせたくなる室礼ができますよう努力したいと思います。家庭で、地域で、縁を頂いた様々な場所で日本人のこころを伝えていけたらと切に思います。
M 昔の思い出話も楽しみながらのインタビューでした。
どうもありがとうございました。