M 今日の話のネタ本はこの本『ビルマの竪琴』ですが、先ずはミャンマー料理の店《びるまの竪琴》の話から始めたいと思います。16年前の2001年3月開店とのことですが店の名前はどのように考えて決めたのですか?
K 店の名前を決めたのは(共同経営者の)佐野さんのアイデアです。日本人のある年齢以上の方は、ミャンマーと云えば「ビルマの竪琴」を連想すると考えたそうです。ビルマをひらがなの「びるま」にしたのは、著作権に触れるかもと考えたからですが、後で調べたら著作権はもう切れていました。(笑)
竪琴が出迎える《びるまの竪琴》の入り口
M 場所が恵比寿になったのは?
K 紹介された物件の中のひとつだったのですが、決め手になったのは入り口の横にショーケースがあったこと、今は竪琴を飾っています。それと当時の私の家からも近かったし…。
M 料理人としての腕前はどのように磨かれたのですか?
K 私はヤンゴン生まれのヤンゴン育ち、一人でも生きていけるようにと子供の頃から母親に料理を教わったが、本格的に料理を始めたのは日本に来てから…。最初は居酒屋さん、次がイタリア料理、そして多国籍料理がアメリカンスタイルアジア料理となって、たどり着いたのがやはりミャンマー料理です。
M 童話本の『ビルマの竪琴』は、1947年3月から1948年2月まで童話雑誌〔赤とんぼ〕に連載され、その後多くの版元から出版された。ここに持ってきたのは1952(昭和27)年に中央公論社ともだちシリーズで発刊された、神保町の古本屋さんで手に入れたお宝本です。映画になったのは1956年と1985年、ココさんがこの物語を知ったのは、本?映画?
この物語に、どのような感想を持っていますか?
K 最初に知ったのは映画です。中井貴一が主人公だったほう…、安井昌二のも後でDVDで見ました。本はその後発行されたものから文庫本まで三冊、店のカウンターの横に置いています。ビルマの僧侶が竪琴を弾くことなどありえないなど、いろいろな話がありますね。私もヤンゴン時代は、国内貿易や仏教の修行で3回お坊さんになりました。
今も両親と兄弟はヤンゴンに在住、皆健在です。
M 作者の竹山道雄は『ビルマの竪琴』のあとがきで、ビルマ戦線でのインパール作戦のことに触れていますが、ふろタン工房の2015年11月のビクトリア山第3次隊メンバーが 車で登山口に向かう途中、北上してインドのインパールに繋がる道の分岐点を通過した時の気持ちを旅日記に書いている。それで完成した〔ストーリーマップ〕のビクトリア山登山ガイドマップには、その道に、アラカン山脈・ミンダットを経てインド・インパールへと書き込みました。そこで林さんの登場です。
H インパール作戦に投入された9万の日本陸軍の内、7万の兵士が退却して白骨街道と呼ばれ無事日本に帰還できたのは2万名だけ、私の父親がその一人です。このインタビューの話を頂いて、父の戦争体験について何も聞かされてなかったし、私のほうからも是非聞きたいとしなかったことを今更ながら悔やんでいます。この機会にと今残っている父の古い資料を探しまわってみました。父の大切に保管していた木箱の中から、軍人恩給支給の為に作成した履歴書が出てきたのでビルマに入るまでのところをメモにしてきました。
M このようにしてビルマに渡り、やがてインパールへの行軍につながっていくのですね。
H そして戦後すぐの昭和20年8月20日に再び泰緬国境を渡り、21年5月に日本に帰ってくるのですが、私達に戦争中の話はしませんでした。したがらなかったというのが事実かもしれません。父の背中には銃弾のかすめたような火傷の傷跡がありました。
昭和58年12月に他界していますが、その通夜に私は初めてお会いする方ですが、インパールで第33師団の同朋がいらっしゃいまして、是非一緒に最後まで居させてくれと棺の脇で一夜を過ごされていかれました。戦争で生死を共に過ごした方の団結力を感じました。
M 帰国されてからも交友があった方などは他にもおられたのですか?
H 父は大正9年長野県穂高町の生まれ、昭和13年に本島工務所入社し、社長宅に下宿させていただき働きながら日本大学高等工学校土木科で勉学し昭和16年に卒業、繰り上げ卒業なのか卒業を最後に招集されたようです。復員後も昭和21年6月に本島工務所を改組し設立した昭和測量工業株式会社に引き続きお世話になりました。
私も今「昭和」ですが、インパールの時父と生死を共にし、復員後も色々と交流があった中林さんのご子息も当社に入社しました。その彼に確認しましたら、生前インパールでの出来事、思い出等を記録に収めて本を出版する準備をしていたそうです。その時の膨大な資料が残されています。その中に、特に大変だったのが物資、弾薬、食料が不足し絶たれたこと、空腹により靴まで湯がいて食べた(しゃぶった)ことなどが記されています。本の購入希望者リストまであって出版間際だった時に他界され、残念ながら幻の原稿資料のままになっているのだそうです。
M 第3次隊メンバーのバガンの遺跡巡りの時、ガイドさんがダビィニュ寺院の日本兵慰霊碑に案内し、ミャンマーは上座部仏教なので誰も墓を持たないけれど、日本人墓地を大切に管理していることを伝えています。昨年の9月に亡くなられた加藤の乱の加藤紘一さんが、亡くなる前にインパール戦没者慰霊の旅に向かい、ミャンマーで倒れたことが話題になっていましたね。9条改正反対の反戦の政治家だった。
インパールは太平洋戦争末期の忘れてはならない悲惨な体験、昭和の記憶として語り継ぐべき出来事ですね。天皇の退位でやがて平成も終わり、昭和の時代がますます遠くなってしまう気がします。
先ほど「昭和」の前身の会社の話が出ました。昭和の記憶から引き続いて今度は会社の「昭和」の方の歴史を伺いたいと思います。
H 最初に会社と父との関係を少しお話ししたいと思います。測量を業とする本島工務所の創業は大正12年10月1日、関東大震災が発生した1か月後です。終戦の翌年、昭和21年6月17日に本島工務所改め昭和株式会社が設立されます。父は昭和21年5月復員して熊谷の復興にかかわります。熊谷の空襲は終戦の前日昭和20年8月14日午後11時30分、市街地の三分の二が焼失しました。(被災戸数3630戸、死者266名)熊谷がなぜ空襲されたのか、群馬の大泉にある中島飛行機の部品製造の中心地であり、特攻隊操縦者の養成学校があったためといわれています。
先々代社長の銅像が見守る「昭和㈱」の社屋 昭和21年9月戦災復興都市計画土地区画事業が開始され、「昭和」は熊谷営業所を開設、事務所は母の実家の離れで、父は所長として従事しました。同年6月に母と所帯を持ち家は1軒家でしたので事務所兼自宅となり、私は11歳までそこで生活しました。物心ついた時から今までずっと昭和と関係を持っていることになります。小さい時の思い出ですが、4畳半の畳の部屋で図面を広げ社員が回すタイガーの計算機のカチン、カチンの音で目が覚めたりしました。
そして平成を迎えようとする昭和63年10月に社名を昭和株式会社に変更し現在に至っております。
関東大震災、戦災復興、阪神淡路大震災、東日本大震災と国の危機を救う大事業にコンサルとして参画してきました。これからも復興に貢献したいと思っております。
M ビクトリア山登山ガイドマップのインパールへの道の書き込みの話から、厳しい時代の話を伺いましたが、今度はその〔ストーリーマップ〕の裏側の御嶽山の話に移りたいと思います。
2014年3月の第2次隊は日本の登山マップを紹介しようと、市販の御嶽山マップと、〔公園の登山道〕という日本の山道づくりを紹介する子供向けの小冊子をナマタン公園事務所に届けました。前年3月の第1次隊がビクトリア山の山道の舗装工事現場で子供も手伝って路盤の砕石を並べているのを見て、その光景を小冊子の表紙に描いています。ミャンマー語へのボランティア翻訳をココさんと佐野さんにお願いしました。
S (ここでカウンターの向こうから佐野貴美代さんがコメント)
とても苦労しましたよ。子供向けの小冊子なのに、なぜか表現が難しくて、文章が長い。仕方ないので私が短い文章に直し、それからココさんが訳しました。
M 難しい仕事をお願いしてスミマセンでした。(笑)
「ストーリーマップ」の御嶽山の頭書には日本では日本百名山を目指してその数が増えるのを楽しみながら登る山好きな人がいると紹介しています。その話をしたらミャンマー人は趣味で山登りする人など余りいないといわれましたが…。
K 昔はマンダレー大学に登山部がありましたが、軍政の時代にクラブ活動だけでなく大学そのものがいろいろな制約を受け停滞しました、民主化政権になって大きく変わって今は登山部も復活し、日本人のカカボラジ登山の挑戦の時お手伝いしたのはヤンゴン大学の登山部の学生さんが中心です。山が好きな人たちもこれからだんだん増えてくるのではないでしょうか。
M ふろタン工房メンバーでも日本百名山踏破者が最近出まして、第2次隊隊長の赤川氏、この9月9日100番目に登ったのが乗鞍岳、
御嶽山の北側にある同じ独立峰でビクトリア山のように頂上近くまで車の道があります。これが頂上での記念写真です。
厳しい時代の話から、百名山達成のメデタイ話になったところで、インタビューのまとめにしたいと思います。最後は未来に向かって、ミャンマー料理店《びるまの竪琴》のこれからの夢、「昭和」が都市計画コンサルとして今後目指すことなど…。それぞれお聞かせください。
K&S 《びるまの竪琴》もあと3年で20周年になります。まだまだ頑張っていきますのでよろしくお願いします。
H 今まで培ったノウハウを生かし社会貢献したいと考えております。今までは区画整理の土地を扱ってきましたが、今後は上物と一体になった事業展開をしていきたいと考えています。
これだけの歴史を刻めたのは、先人達の努力と技術の伝承があったからだと考えています。若い人達の柔らかい発想と、ベテランの経験を融合し創業100年に向けてみんなで知恵を出し合いながら仕事をしていきたいと思います。
M ありがとうございました。20周年・100周年を目指して、ますます発展されることを願っております。