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ふろタンインタビュー

第2回 ふろタンインタビュー

「御嶽山」と「百草丸」
ゴールデンウィーク前の桜満開の木曽路の古い宿場町藪原、玄関の前庭にキハダの木がある日野製薬に、木曽ユネスコ協会会長の井原正登さん( I )をお訪ねしてのインタビューです。 ( 聞き手は室井理事長M ) 2015.4.27

木曽ユネスコ協会と御嶽山登山道整備活動

M ビクトリア山の山麓地域で活動するNPO法人「ふろタン工房」を立ち上げる準備をしていた時から、活動の参考に考えていたのは、木曽ユネスコ協会が取り組んでおられる御嶽山登山道整備の活動です。この活動はどのようにスタートしたのでしょうか。

I 木曽地域は、霊峰御嶽の山麓の狭い山間に細長く続き豊かな自然と独自の歴史文化を有しています。郷土を愛し大切にする人たちで地域に根ざしたユネスコ活動を実践しようと、2003年8月にNPO法人の認証を得て、9月に日本ユネスコ協会連盟に加盟しました。最初は高校生のボランティア活動やこどもキャンプなどから始めましたが、御嶽山の登山客や御嶽信仰の信者の方々が安全に登山できるように、2007年から、地元企業の集まりである御嶽奉仕会との共催で御嶽山の登山道整備活動を続けています。

M 昨年の御嶽山の噴火の前にも、登って活動されていたのですね

I 毎年7月2日を定例日にして活動しています。黒澤口と王滝口に集合した二つのグループで登山道を整備しながら剣ヶ峰を目指します。3年前から毎年授業を兼ねて参加してくれる県立林業大学校の学生さんたちと黒澤口から一緒に登りました。作業は枕木補修・枝払い・ロープの張り替えと、登山道に水が溜まらないように水の逃げ道を作るような力仕事があるので、若い学生さんの参加は大助かりです。頂上小屋周辺では空き缶などのゴミ拾い作業、そして王滝口登山道の整備グループと合流して喜びを分かち合いながら一緒に昼食をとり、剣ヶ峰頂上に向かいます。そして下山の石段でハイタッチしてお別れします。毎年このような活動をしています。

M 活動の紹介資料には、毎年100名以上の参加者と書かれていますが、これからも毎年多くの人達を集めて活動を続けるために、県外の人達にも広く声をかけていこうなどと考えておられますか。

I 活動の輪を広げようと考えて、黒澤口側は地元主体、王滝口側は地元以外の人達中心にと分けてやったことがあるのですが、王滝口は観光気分で参加された方が多かったせいか、どうも作業に身が入らない。黒沢口は真面目に一所懸命作業しているのにと、上で合流した時に何か気まずい雰囲気になって、これは失敗したかなと(笑)
 多くの人と交流したいという気持ちはあるのですが…。

M 私達が参加する時には、そうならないよう肝に銘じておきましょう(笑)
昨年の噴火が麓の人達に与えた影響は計り知れないと思いますが、井原さんはその日はどうしておられましたか。

I 私は、用事で松本に行っていましたが、社員から噴火の連絡が入り、急いで御嶽山麓にある弊社の店舗に行きました。その日は、当社と関係の深い2つのパーティの方が王滝口から御嶽山に登っていましたが、幸いどちらも無事に黒澤口に下山したという電話連絡がありました。社員が迎えに行き、王滝口の駐車場までお連れしました。ただ親交があった八十二銀行の方が登山中に亡くなられました。八十二銀行福島支店に勤務されていた時に、7月10日の頂上開山祭にお連れしたことから、御嶽山の魅力を感じるようになり、転勤後も御嶽登山をされていたようです。運悪く9月28日に登ったのも、私が御嶽山の魅力を伝えたことに起因したのではないかなどと考えて、半年が過ぎた今でも心が痛みます。

M まだ見つからない登山者の方もおられて、入山禁止の解除はいつになるか分からない状態ですが、登山道整備の活動はこれからどうされますか。

I 色々と考えましたが、7月2日の活動は今年も、これからも続けることにしました。2キロメートルまで規制が解除されれば、黒澤口は八合目まで登ることができます。森林限界に近い八合目までの整備作業が最も重要なので、入山できる範囲で活動を続けて行きたいと思います。

M いつかは、どの登り口からでも山頂を目指せる日が戻ってくるでしょうが、その日のためにいつでも登山道を使える状態に整備しておくというのは、本当に御嶽山を愛してないと出来ないことですね。
 30年以上昔の昭和54年に有史以来初めて御嶽山が噴火し、それまでの死火山休火山という火山の分類が見直されたという話で有名になりましたが、この最初の噴火のあった日のことで今でも記憶に残っていることはありますか。

I その当時は、私は東京にいたので、後で御嶽信者の関係者の方などから話は聞きましたが、オフシーズンで被害が今回に比べて大きくなかったこともあって、あまり記憶に残っているような話はないのです。

M 私達の「ふろタン工房」がURのワンゲル同好会を母体にしていることを以前お話ししましたが、同好会のスタートは最初の御嶽噴火の6年前の1973年です。長い間活動していますから主だった山にはかなり登っているのですが、同好会の企画で最初に御嶽山に登ったのはスタートして30年近く過ぎた平成14年、登るということではどちらかというと関心が低い山でした。それが変わったのが、平成25年3月に40周年記念登山で登ったミャンマーのビクトリア山です。標高がほぼ同じ独立峰ということで御嶽山を連想してはいましたが、山と共に生きる地域づくりを目指したNPOの設立準備を始め、登ることだけでなく山麓の生活にも目を向け始めてから、御嶽山と木曽路から離れられなくなりました。そしてその年の9月、王滝口から御嶽山に登り、その日が御嶽噴火の前の年の同じ土曜日でした。
 木曽ユネスコ協会の登山道整備活動が、今までと同じように今年も行われるというお話を今日聞いて、大変うれしく思います。

伝承薬「百草丸」と木曽路の未来

M それでは、江戸時代からの伝承薬「百草丸」守り続けている日野製薬のあゆみと重ね合わせながら、御嶽山と木曽路の歴史あるお話しを伺っていきたいと思います。

I 江戸時代に中山道の藪原宿で旅籠を営んでいた日野屋は百草の販売もしていました。御嶽山登拝の講社の定宿で、御嶽山が遥拝できる鳥居峠にある不道明王像にも大権現像にも日野屋文平の名が刻まれており、御嶽信仰の行者や信者たちとの深いつながりが伺えます。
 明治に入って製薬・売薬業者が免許制になり、御嶽山の霊薬と御嶽みやげとして百草の需要が増えていきます。明治44年の中央線全線開通で宿場が衰退し、日野屋は旅籠を廃業して「百草」の製造販売をするようになりました。
 昭和10年頃には木曽路沿道での百草製造者はおよそ40軒を数えましたが、規模は小さく大きな鍋を備えての家内製造業でした。日野屋の11代当主日野文平は、昭和22年に日野製薬合名会社を設立、昭和42年に株式会社になり、昭和45年に現在の地に本社・工場を新築・移転、現在のこの建物は昭和62年に本社の新築と工場の増改築を行ったものです。

M 私達は、ビクトリア山麓の村での地域おこしについて、山を訪れた人たちへのみやげ物づくりなどを考えていますが、御嶽講に参加した人達がみやげ物として持ち帰った「百草丸」の話は、旅行産業のさきがけともいえる感じがします。

I 「百草」はミカン科のキハダの内皮オウバクを煮出し、煮詰めたとても苦くて黄色いエキスを使用して製造します。この窓から入口駐車場にあるシンボルツリーのキハダが見えますが、その横にまだ小さくてよく見えませんが、キハダの苗を植えています。日本ではキハダの木が減って、今は殆んど中国から輸入しています。昔は沢山あった木曽のキハダを甦らすことが出来ないかと思っているのです。
 私が着ているこの会社のユニフォームがキハダ色です。(笑)

M 車で走っていると、木曽路の風景の中に、「百草丸」を掲げた道の駅のようなショップがいくつか見えてきますが…?

I 日野屋の時代からお客様に直接販売することで成長してきましたから、昭和58年に御嶽山麓で里宮店と王滝店、平成17年には、年間30万人の観光客が訪れる奈良井宿にも開店しました。歴史ある木曽路からは限界集落など出ないようにしたいと思っています。

M 重要伝統建造物群保存地区の、1976年の最初の指定地区の一つに妻籠宿が選ばれて、それを追いかけるように奈良井宿も指定されていますね。木曽路の宿場町は、本当に早い時期から情報発信し、地道な努力をされているように思います。
 それでは、御嶽山と木曽路の未来に向かって、木曽ユネスコ協会のこれからの活動について、お話いただきたいと思います。

I 今迄御嶽山の登山道整備と並んで、「木曽丸ごと夢づくり活動」として取り組んできたのが、一里塚の復元です。江戸時代の木曽地域には中山道沿いに22か所の一里塚がありましたが、鉄道や国道が通った時壊されたりして所在が分からなかったり、木製の標柱しかないものが10か所ありました。復元のため2011年に5か所、2012年に5か所に石碑を設置、地域に残っている遺産に関心を持ってもらおうと、刻む「地名 一里塚跡」は子供たちに書いてもらっています。2013年からは由来や地域の特徴を記述した案内板を設置することにし、これも中学生が書いています。
 また、これは東日本大震災の被災地の子供たちを招いての活動ですが、2012年から「楽器パンドーラの製作と演奏の実習会」というのを木祖村のやぶはら高原こだまの森で行っています。子供たちが自分の好きな形状の楽器のデザイン図を書き、工作で胴・棹を作り上げ、弦を張り塗装をします。世界に二つとない自分の楽器を制作し、皆で演奏会を開きます。2014年はいわき市の小中学生2015年は川俣町の小学6年生が参加しました。
 未来に向けての夢といえば、私は、やはり「未来の子供たちが住みたくなる木曽」をつくることだと思っています。
 木曽には、世界で唯一天然更新に成功した「木曽悠久の森」という貴重な自然遺産があります。「自然と人の調和と共生」により木曽の自然を未来に残し、国際的ブランド力アップを通して木曽地域の活性化を実現するために、ユネスコエコパークへの登録を目指しています。昨年2月に検討委員会を発足し、申請準備を進めています。今年度中に申請書を提出し、2017年のユネスコ本部の認定を目指しています。

M 私達も応援したいと思います。頂いた資料に書かれている「夢と物語性があれば人は協力してくれる」という言葉、今日のお話を聞いて本当にそのように思いました。どうもありがとうございました。

インタビューを終えて隣の資料展示室に移動、玄関ホールから階段を上った受付の真正面にあるこの部屋には木曽路と百草丸の歴史を語る資料が並んでいます。この部屋は最初は社長室だったこと、一人だけ離れているのが嫌で皆がいる大部屋の中に移り、資料室に衣替えしたことなど、裏話を伺いながらお別れし、御嶽山の夕焼けが見える場所へと向かいました。