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ふろタンインタビュー

第3回 ふろタンインタビュー

天空の山と「祈りの造形」
日本橋高島屋の美術画廊で開かれていた 「石空間展」、独創的な石彫刻家として内外実績を持つ大成浩さん(H)が、若い石の造形家を率いて始めてから25周年を迎えた記念会場で、奥様の栄子さん(E)とご一緒に、今までのこと、これからのこと、色々なお話を伺いました。お盆の迎え火の日のインタビューです。(聞き手は室井理事長M) 2015.8.13

彫刻のある街かど実験と宇津木台の竣工記念碑

M 今開催されている石空間展が今年で25周年記念ですが、大成さんに初めてお会いしてからは40周年近くになるでしょうか。多摩ニュータウンの最初の入居が1971年3月、陸の孤島の不便な団地と言われたスタートでしたが、1974年に鉄道が開通して永山駅前に日本住宅公団の事務所をも移転し、ニュータウンらしいまちづくりへと色々なことにチャレンジしていた時代でした。その頃、八王子を彫刻もあるまちにしようと街づくり運動に取り組んでいた造形大の先生方(大成浩・渡辺隆根・魚住双全)にお願いし、永山の近隣センターに彫刻を置く「まちかど実験」を行うことにしました。

H そうでしたね。丸いドーナツ型の「陽風」と呼んでいた作品の一つを置きました。私は彫刻は眺めるだけでなく手で触れて肌で感じるものと考えていましたから、いい実験だと思って協力しました。渡辺さんも魚住さんも残念ながら亡くなられて…。あの実験からずいぶん時間がたちましたね。

M 考えておられたとおりに、丸い彫刻に子供たちが集まってきて触ったり潜ったりして騒いでいて、通りかかる人たちにアンケート取ったりしました。

H あれからも色々な風のシリーズで制作を続けてきましたが、今年長野の野外彫刻賞を受けた作品もこの時と同じ「陽風」、長野市の権堂に置かれています。

M 多摩局のあと私は新宿の首都圏本部に異動になり、都内の幾つかの開発地区に関わりましたが、その中の一つ宇津木台地区の最初の入居から区画整理事業の竣工までの仕事を担当しました。1988年に竣工記念碑をつくる話があり、尾根道空間を宇津木台緑地として残していた地区でしたから、ふさわしい記念碑をと思い大成さんに声をかけました。

H 当時私は「風の塔」シリーズに取り組んでいて、NO.8が中原悌二郎賞を受賞して旭川市に設置されましたので、「風の塔NO.9」を竣工記念碑にと考えました。

M その頃は日本住宅公団から住宅・都市整備公団になっていましたが、「宇津木台のまちと風の塔がどうつながるんだ」などと難しいことをおっしゃる方がいて理論建てに苦心してました。そのメモを大成さんに見せたら「このまま銘板に書いてしまいましょう」と云われて…

H そうでしたね。ですからあの「風の塔」は室井さんとの合作ですよ。あの頃から不思議な縁でつながった気がします。(笑)

M その後宇津木台の宅地分譲地に大成邸が建って、今もずーっとそこにお住まいですね

E この記念碑が私たちを呼んでくれたのかしらなどと話していました。それまでは分譲地に申し込んでも落選していたのに、この時は百何十倍かの宅地に当たって幸運の風を運ぶ塔です。周りに施設が立ち始めて記念碑が移設されましたが、銘板は今も一緒に置かれています。

「祈りの造形」西村公朝の時空を歩く

M 宇津木台以降も、国展と石空間展の案内状をいつも送っていただき、会場でお会いできたときは言葉を交わすようなおつきあいでしたが、運よく奥様とご一緒の時は彫刻の前で写真を写してあとで送ってくれて…奥様は専らカメラマン役。今年4月に吹田市立博物館での西村公朝生誕100年展と本「祈りの造形 評伝・西村公朝の時空を歩く」(新潮社)の出版のご案内をいただいて、日本の仏像修理・制作第一人者のご長女だったと初めて知ることになりました。
 案内文には西村公朝の名の後に(仏像修理技術者・仏像彫刻家・僧侶)と書かれていましたが、本を読んでみて三つの立場を並べられた意味がとてもよく分かりました。

E 父が1986年にNHKの市民大学講座を担当した時に、この三つの視点で仏像を語るとき「信仰の対象としての仏像」と「彫刻としての仏像」の両方が組み合わさった新しい概念として「祈りの造形」という言葉を生み出しました。それで本の題名にもこの言葉を使いました。

M 生誕100年を記念する年が、戦後70年の年でもあるわけですが、出版するにあたってそのことは何か考えましたか。

E 特に意識をしてということはありませんが、父は仏像や仏画だけでなく書物や話したことをまとめた資料など沢山のものを残していましたから、それを整理してまとめたいと思っていました。実際に足跡を辿りながら少しずつ進めていたものがちょうどそのタイミングで出来上がったということでしょうか。

M 昭和19年の、「睡魔に襲われて隊列を離れたら死に至るようなつらい夜行軍の中で、壊れた何千という仏像が直してくれと叫ぶ夢」を見る場面はとても印象的です。「仏像修理と制作に一生を捧げた強い信念の原点は中国での三年半にあったのは明白」と書かれていますね。

E 美術学校彫刻科の時は現代彫刻家に憧れておりましたが、昭和16年美術院国宝修理所に入所して仏像修理に携わるようになりました。しかし自らの未熟さに嫌気がさしてきた頃に召集令状がましたので、もし無事に帰れたら修理所は辞めようと考えて中国へ出征したそうです。それがこの夜行軍中の仏像たちとの約束が転機となって、昭和20年11月の帰国後すぐに美術院に戻り、仏像修理に邁進していきます。
 しかし、「行軍中一度も敵兵に合わず弾を一発も撃たずにすんだこと、不思議なくらい怖いことが自分を避けていき、終戦間もない11月に復員・帰国できた幸運は、夢の中での仏さんとの約束のおかげ」というように書き残している部分については、私は物心ついた頃から、中国から帰国がかなわなかった人や命を落とした人のことを思って何か後ろめたさを感じていました。それで今回の執筆にあたり戦争に関連する書物や資料を読んだり、報道番組を見たりして私なりに色々と考えました。ただ、もし帰れなかったら私は生まれていないわけですから、家族としては素直に喜ぶべきなんでしょう。
 ただし、実際には、戦場ですから、非常に悲惨な現場に幾度となく遭遇している記述もありますので、仏像の修理や制作を通して、「祈りの造形」を生涯追及していたのでしょう。

M 大成さんも終戦の翌21年11月に大陸から帰国されたとお聞きしましたが。

H 私の父は昭和20年5月に現地召集で出兵し、8月17日にソ満国境で戦死しました。私は終戦の年は6歳で、母と弟妹と一緒に満州から難民となって朝鮮半島の三十八度線を越えて帰国しました。引揚者達の一団と共に野宿した草原で感じた風の記憶が、今の「風」シリーズにつながっています。

E 私の父は、仏像を正しく造るには仏教を深く知らなければならないと考えるようになり、昭和27年に得度しました。縁あって同30年に京都・嵯峨野の愛宕念仏寺の住職となり、荒れ寺であった同寺の復興に力を注ぎました。真手だけを残して、1本いくらで売られてしまっていた本尊の千手観音像の修理をしながら、あの夜行軍中の夢の中にこの本尊もいたかも知れないと思ったそうです。

M 本には、小さな子供たちにあてた葉書がいくつか載っていますが

E 昭和20年代、30年代の父は仏像調査や修理で一年のほとんど、全国を駆け回っていましたが、出張先から頻繁に葉書をくれました。私はそれが父の深い愛情である事を子供心に感じていましたので、父が遊んでくれないとか何処にも連れて行ってくれないことを不満に感じた事はありません。

M あとがきに書かれている「ロダンやブールデルに憧れた学生時代… …ロダンとは別の祈りの造形を手にすることが出来ました」という言葉がとても印象に残り、大成さんのお仕事とクロスして感じるんですが、本には公朝さんはお酒をまったく口にされなかったと書かれています。お酒を飲んでのコミュニケーションを大切にしている大成さんとの、義父と息子との会話はどんなふうだったのでしょう。(笑)

H 私が飲みながら話し続けても最初に注いだ盃の酒がいつまでもそのままになっているような感じでしたが、ちょうど二廻り違いの兎年で、よく話し合ったというか話を聞いてもらっていました。義父の掌の上で話をさせられていたのかもしれません。

E 祝いの席で黒田節を舞いながら詠じたり、昔の歌謡曲を哀愁込めて歌ったりと、お酒は飲まなくても人との交わりの時間を楽しんでいたように思います。(笑)

H 自分の信念は曲げない人でしたが、人の話はよく聞いて上手に人の話を導き出す人で、本の題名になった「祈りの造形」という言葉も、そのような場で私が何となく口にしたら、「そうそうそれだよ!」と上手に相槌を打たれて…

高尾山の天狗面像とパゴダのあるビクトリア山

M 私達のふろんてぃあタウン工房は、多摩ニュータウンで産声を上げた住宅公団のワンダーフォーゲルのメンバーが中心になってつくったNPO法人で、「山と共に生きる地域づくり」を謳って活動をスタートさせています。日本の山には、高徳な僧侶によって開かれた名山が沢山あり、修験道と山岳修行による信仰登山が「登山」の始まりと云われたりするように、その雰囲気を今に伝えている山も多くあります。前回インタビューではその代表的な山「御嶽山」で活動されている木曽ユネスコ協会に登場いただきました。
今回は「高尾山」。高尾駅のホームにある天狗面像の話に移りますが、あの石像はどのような経緯でつくられたのですか?

H 高尾山薬王院天狗面が駅のホームに出現したのは1978年、きっかけはやはり八王子の彫刻シンポジウムです。青年会議所のメンバーに高尾山の薬王院の方もいて、成田山、川崎大師と並ぶ真言宗の関東三大本山の一つである高尾山を活かして地域の活性化ができないかという話から、JR当時国鉄の高尾駅のホームに天狗面を置く話につながっていきました。国鉄が「ディスカバージャパン」で日本再発見ブームを展開していた時代でしたからその波に上手く乗ったのでしょう。石造天狗面が建って、6年後に新山門に四天王像を建立しました。それから永い年月が経過して高尾山はハイキングだけでなく、多くの人が集って楽しむ人気の観光スポットになりました。

E かつてテレビの「サザエさん」で、始めのテーマソングと一緒に日本各地の観光地を紹介していしたが、高尾駅の天狗面の傍にサザエさんが立っている場面もありました。

M 私たちが活動しているのはミャンマーのビクトリア山という山で、毎年1回は現地への遠征隊を送ろうとしているのですが、なにしろ首都ヤンゴンからも遠く離れていてガイドマップもなくあまり人に知られていない山ですから遠征メンバー集めに苦労しています。御嶽山と同じ3000m級の山で山麓まで到達するまでは悪路でハードですが、登り口が高く歩く距離はそんなに長くありません。それでメンバー集めのPRには、いつも「高尾山を登るくらいの体力があれば大丈夫」と云って誘っているんです。 ビクトリア山があるチン州はミャンマーの州の中で一番貧しい州、新しく産業を興すのが難しく、可能性があるのは観光産業かと云われています。ミャンマーは臙脂色の法衣を着て托鉢する修行僧の姿で朝が始まり、夜は大きなパゴダ(仏塔)がライトアップされるような仏教国、ビクトリア山は山頂近くには小さなパゴダがある山です。パゴダから天狗面像を連想し、高尾山から学ぶことが色々とあるのではと感じています。

H 山の仏塔のイメージが上に伸びる「風の塔」だとしたら、横に無限に拡がるのが「風の地平線」といったところでしょうか。「風の塔」の後もU型の「風の標識」、四角形を組合わせた「風洞」など風シリーズを続けてきましたが、これからも無限に拡がる夢に向かった風を描いていきたいと考えています。

M ところで、大成さんは1972年の帯広市の石彫シンポジウムで「風門」を制作されていますね。

H そうですね。帯広市緑が丘公園の「風門」は、二本の柱の石の上に横に長い石を載せた鳥居のような形の門です。

M 帯広は私の生まれ故郷なんですが、大成さんの初期の大作「風門」が帯広にあり、不思議な縁はここでもつながっているのでしょうか。(笑)

H 私のふるさとは、「蜃気楼の見えるまち 魚津」なのですが、今「蜃気楼大使」という名の魚津市観光大使を仰せつかっています。名刺を差し上げます。どうぞよろしく。(笑)
高さ約3m、長さ16mの巨大な彫刻「風の地平線―蜃気楼」を蜃気楼の見える海の傍に設置しています。

E 私のふるさとは吹田市ですが、吹田市にある千里ニュータウンは日本で最初のニュータウンなんですよね。

M そうです。千里ニュータウンが第1号、それを追いかけて高蔵寺ニュータウン、多摩ニュータウンと続きます。多摩ニュータウンのまちかど実験から始まった今日のインタビュー、3人のふるさとの話から絶妙の締めのタイミングで千里ニュータウンの名が出たところでお開きにしたいと思います。どうもありがとうございました。

石空間展を主催する「アトリエ風」、石という素材に魅せられた若者たちを集めてつくったこの集団を、大成さんは「私の宝物です」という。四半世紀育んできた若い人たちの作品が並んだ会場、ゆっくりと眺めて行きかう来場者、そんな中での楽しい語り合いでした。