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ふろタンインタビュー

第4回 ふろタンインタビュー

植物図鑑で森守れ
黄色いイチョウの葉が学内の路を覆う師走の日曜日の東大本郷キャンパス、理学部2号館講堂で行われた「ヒマラヤ植物研究会」創立30周年記念シンポジウムで牧野植物園の藤川和美さん(F)の講演を聞き、その後同じ学内の農学部にある「アースウオッチ・ジャパン」の事務所に移動して、安田重雄さん(Y)と一緒に進めてこられたミャンマー・ナマタン国立公園の植物調査のお話を色々と伺いました。 ( 聞き手は室井理事長M ) 2015.12.13

ナマタン国立公園の有用植物資源調査

M 藤川さんから今日のシンポジウムのご案内を頂き、ミャンマーの植物調査だけでなく、ヒマラヤでも活動されているんだと感心しながら参加させてもらいましたが、藤川さんの活動の原点は、ネパール・ヒマラヤにあったのですね。

F そうなんです。大学卒業後に青年海外協力隊でネパールに2年半行っていたのですが、その時ヒマラヤ高山帯でワタゲトウヒレンという奇妙な植物に出逢って、なぜこんな過酷な環境で生育するのだろう?謎をとことん調べてみようと大学院に進むことにしました。植物分類学にはまった原点がヒマラヤです。

M 今日の講演のタイトルも「キク科トウヒレンの植物多様性」になっていましたが、寒冷・強風を防ぐため綿毛に覆われている「トゲのないアザミ」と、お話しされていたのが案内チラシの写真の花ですね。

F はい。標高4200Mを超えてから出てくる花なので、ミャンマーのナマタン国立公園にはないんですよ。

M その研究でドクターを取られて牧野植物園の研究員になり、JICAの草の根技術協力のミャンマーのナマタン国立公園の有用植物調査で、初めて安田さんとお会いになったわけですね。

Y そうですね。2006年9月から2009年6月の3か年のJICA支援のプロジェクトでした。

M 植物の世界で仕事されるようになったきっかけ・原点について藤川さんにお伺いしましたから、安田さんにも同じ質問ですが、自己紹介の資料で見るとかなり幼い頃まで遡るようですが…?

Y 子供の頃から植物を眺めているのが好きでした。庭いじりが好きで植物の名前を良く知っている母が花の名前を良く教えてくれたし、私も素直に聞き入れる性格だったようです。小学校の先生から知っている植物の名前を書いて持ってくるように言われた時、母が庭の草木を見せながら書いて私に持たせた花の数は、クラスでも飛びぬけて多く、それからクラスの中では「植物博士」と呼ばれるようになりました。(笑)

M 藤川さんがなるより、ズーッと前にドクターだったのですね。(笑)

Y この子供時代の経験が私の人生での植物への興味を形づくるきっかけになりましたね。社会に出てからの35年間の損害保険にかかわるサラリーマン生活では封印されていましたが、ついに我慢できなくなり(笑)、ミャンマーでのJICA支援プロジェクトが現地駐在マネージャーを募っていることを知り、これに志願しました。2007年4月から牧野植物園に勤務し、1か月の研修の後現地に赴任しました。

M 愈々封印を解いて現地での活動が始まったわけですね。

Y 赴任地は、バガンから悪路を4駆で約8~10時間要する地、雨季には道路が遮断され長期間にわたって陸の孤島になってしまうことも…。このアクセスの悪さのために住民は貧困にあえいでいるわけですが、これがまた、生物多様性が保たたれている主因なのですから皮肉なものです。当然のことながら、貧しい村の人にとっては明日の食料が最大の関心事、生物多様性の保全など理解を超えた世界です。種の保全と共に持続的な現金収入の途を創り出すために取り上げた二つの植物が野生ランと蒟蒻(コンニャク)だったことは、以前にお届けしたレポートに書かれているとおりです。

M 現地滞在の生活で一番苦労されたこと、困ったことは何でしょうか

Y 電気がない、頼れる病院がない、電話がない、すべて困ったことだらけでした。よくまあ2年間も無事に過ごしたものだと、今でも自分ながら感心してしまいます。高度1500mの土地であったため熱帯にありながら昼間でも汗をかくことなく快適でしたが、夜になると結構冷え込み、特に12月から3月頃にかけての乾季は寒く、暖房もないため寒がりの私は年中、日本から持ち込んだ湯たんぽが手放せませんでした。「ビルマの竪琴」ならぬ「ビルマの湯たんぽ」ですよ。(笑)

M JICAのプロジェクト期間を終えて、藤川さんと二人で編集し、牧野記念財団とJICA四国支部が発行したプロジェクト報告書が、先程話に出たレポートですね。私がこのレポートを安田さんから戴くことになったのは、UR都市機構ワンダーフォーゲル同好会の設立40周年の記念山行でビクトリア山(私たちはミャンマー名のナマタンを英語名でそう呼んでいましたが)、の登山を企画し、2013年3月に登山口で安田さんに偶然お会いしたのがきっかけです。帰国後に報告書を送っていただきました。

Y 登山口で最初にお会いした時は、登山口から先にも車が通れる道ができたと聞いて仲間とそれを確かめに行った時でした。

M 山から戻ってきてオアシスリゾートにお邪魔した時も、登山口から頂上に向かって車の道が造られ、貴重な植生が損傷したことを大変憤慨されていましたね。

Y 奥に集落があり、そこと結ぶ車道が必要との政治的な要請があれば、国立公園事務所でも止められないのです。それが残念でしたね。

M 私も3000mを超える山の頂上間近まで車の道があるのには驚きました。60~70年代の日本で騒がれていたスーパー林道を思い浮かべました。その多くが山の観光道路になっていますが自然保護の規制が後追いになってしまうのが一番の問題でしょうね。日本と同じようにやがては登山口から上が一般車両規制になるんだったら速めに仕掛ける方法がないかなどと話している内に、1年後の2014年3月の第2次登山隊が、山麓の道の工事が進んでいることを伝え、そして先月帰ってきた第3次隊が写してきた山頂の写真にお釈迦様の像があるのを見て仰天、山の雰囲気も随分変わってきているのだろうと思いました。

F 本当にそうですね。特に最近は変化のスピードが増していると思います。オートバイも荷物を運ぶ車も増えています。花畑だったところが笹原になったり、植物環境が大きく変わって行っています。公園事務所だけでなく中央政府も入ってみんなで考えなくてはならない問題だと思いますね。道路整備だけでなく水力発電所が出来て電気もきますし、変化のスピードはさらに増すのではないでしょうか。

2015年7 月2 日付「東京新聞(夕刊)」

M 今年の7月8日にふろんてぃあタウン工房のNPO法人設立1周年記念の懇親会を行い、今話をした第3次隊メンバーの紹介などもして30名程が集まったのですが、出席者の一人が持ってきたのがこの7月2日付の東京新聞、「植物図鑑で森守れ」という見出しで今迄のナマタン国立公園での植物調査について藤川さんを取材していました。その場でコピーして出席者全員に配りましたが、ミャンマーでの植物図鑑の整備など興味深い記事でしたので、見出しをそのまま今回のインタビューのタイトルにしました。「藤川は植物分類学者では終わらない」と書かれていましたね。

F ナマタン国立公園の植物調査では、安田さんの話にも合ったように薬用ランの組織培養や野生蒟蒻栽培などによって、住民の生活向上を通じて自然を保護しようという取り組みを進めてきました。再来年3月にはナマタン国立公園の植物図鑑が出来上がります。そうすれば有用種を識別して活用策を練ることもできるし、絶滅危惧種の保護にも取り組める。植物図鑑は経済発展・自然保護すべての基礎なのです。でも、ミャンマーの植物を網羅した図鑑はまだなく、その第一歩を踏み出したばかりです。

Y 貧しい村の人たちと一緒に種の絶滅からの救済とともに持続的な現金収入の途を創る、現地の事情にしっかりと基づいた施策が必要ですし、その役に立てば良いと思いますね。

M 藤川さんの「ミャンマー植物図鑑」への想いを、新聞記事では「植物分類学の父牧野富太郎博士が日本で図鑑をつくったときの想いもきっとこうだったのに違いない」と重ね合わせて書いていますが、2・3年前だったでしょうか生誕150年で色々な記事が雑誌などに出ていた中で、尾瀬の話が記憶に残っているのですが、植物採集に夢中だった富太郎さんが採集した沢山の植物を長蔵小屋に持ち込んだ時、尾瀬の自然保護で有名な平野長蔵さんに「研究ばかりに熱中せずに保護にも熱心になれ」と叱られたという話が、笑い話のように載っていましたが本当の話なのでしょうか。

F 恐らく牧野富太郎本人が云った話が伝わっているのだと思います。昔の話とはいえ国立公園の中の植物を無断で採集するのは違法ですし、国立公園でなくても盗掘だったら花泥棒でも犯罪人になってしまいますから。(笑)

M そうですね。笑い話でなくて、そういうことを戒めて自然を大事にすることを伝える逸話だったのかもしれませんね。ナマタン国立公園での調査が終わった後も、藤川さんたちのミャンマーの植物資源のJICA調査は続いているのですね。それが、やがては「ミャンマー植物図鑑」へと繋がっていく…。

F チン州の後も、シャン州で植物資源の利活用による村人の所得向上プログラム調査を行うなど、私も年に数回、通算で80日ほどミャンマーに出かけていますが、「植物図鑑」への道はまだまだ遠いです。JICA調査がこれからも続くなどしなければ、現実にはかなり難しい。それとミャンマーに中心になって進めていく人がいることが必要です。現在「植物図鑑」作成済みなのはアジアでは日本と中国、ブータンなどでは標本を採集している段階で、タイやネパールがやや進んでいるのはその国に中心になる人がいるからです。実現できる日が早く来るのを願っているのですが…。

M 期待してその日を待ちたいと思います。ネパールの名が出ましたが、今日のシンポジウムで、ヒマラヤ研のこれからの30年について、「ヒマラヤ・ネイチャリングツアー」という話をされていましたがスタディツアーのようなことをお考えですか。

F 現地の研究者たちとは、ネパール植物誌を協働で進めているところです。今迄も色々なかたちで現地の人との協力・交流がありますが、これからはさらに植物に興味・関心をもっている日本の植物愛好家の皆さんとも一緒に、ヒマラヤの植物について学び考える活動の輪を拡げていきたいと思い少し宣伝しました。

M ふろタンインタビューの第1回に登場してくれた「ミンガラバー・ユネスコクラブ」がバガンまで行って交流活動をするスタディツアーの企画をしています。それでオプションで1泊増やしたらナマタン国立公園でのフロンティアスタディツアーにもなりますというのを、ふろタン工房との共同企画にしたらどうでしょうという話を投げかけています。

Y バガンまで来た人がナマタン国立公園に足を延ばす、そういうかたちでチン州まで足を延ばす人が少しでも増えればいいと思います。現地の人との交流活動は大切ですね。

M お二人の今までの活動とか研究、あるいは今夢に向かって取り組んでおられることについて、次の世代にどのように継いでいきたいかについて、最後にお聞きしたいと思います。

F 次の世代というか若い人たちに伝えたいことを言葉にすれば、「好奇心」と「継続」でしょうか。私の場合は、お互いさまの日本の風土を信頼し、「いい加減は良い加減」とすべてを完璧にこなそうとしないことが、研究の継続性に繋がっているようです。継続は力です。いろいろな意見に対して、勝った負けたではなく一番良い結論を導き出すように考えることが大切だと思います。

Y 私は、「アースウオッチ・ジャパン」の事務局長の仕事を、昨日の社員総会で次の新事務局長さんに引き継いだばかりです。アースウオッチは1971年に米国ボストン市で設立された国際環境NGOで、「アースウオッチ・ジャパン」は1993年に設立され2003年にNPO法人、2013年に認定NPO法人になりました。活動が軌道に乗ったことを支援者の皆さんとお祝いして、昨夜はこの部屋でにぎやかなパーティーを行ったところです。水力発電の電気も来て生活し易くなるんだったら、この際、またカンペレに戻ってナマタン国立公園での活動を続けてもいいかなと思っています(笑)

M 安田さんのおっしゃることだから半分以上本気かなと思ってしまいます。その辺のことはまたお会いできる機会にでも伺うことにし、今日のインタビューを終えたいと思います。お疲れのところありがとうございました。

雨が上がったキャンパス、冬空の静かな闇の中にいくつか明かりが灯った窓がみえるフードサイエンス棟その中にあるアースウオッチ・ジャパンの事務所の会議テーブルには緑の鉢が並び、まだ前夜の楽しいパーティーの余韻が残った部屋でのインタビューとなりました。