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ふろタンインタビュー

第5回 ふろタンインタビュー

百名山登山にも色々なシナリオがある!
前回のふろタンインタビューは、2015年7月2日付の東京新聞夕刊の記事がきっかけになって「植物図鑑で森守れ」というタイトルでお話を伺いましたが、今回は10月30日付の毎日新聞夕刊の「目標は百名山踏破、演技に通じる感動」という小野寺昭さん(O)を取材した記事を読んだことからインタビューをお願いしました。奇しくも2回続けての新聞記事が取り持ってくれた縁でのふろタンインタビューとなりました。(聞き手は室井理事長M)2016.5.19

「十勝会館前の小山のある遊び場」

M 小野寺さんとは同郷で、生まれた時から高校卒業まで北海道の帯広で過ごしました。子供の頃の共通の遊び場だった公園の話からスタートして故郷での昔話を伺おうと思っています。テレビでは拝見していますが、もう50年以上お話もしていませんので、今日色々とお話を伺うネタ本として2冊の本を持ってきました。小野寺さんが平成10年に書かれた「ぼくの山登りいつも雨」と、童話本「ピーターパン」です。

O ぼくの書いた本はこれが最初で最後の本ですよ。知人に頼まれて出したのですが、山を始めてまだ2年目位だったので、書いているうちに山のエピソードが段々なくなって、話題をつなぐのに随分苦労しました。(笑)

M 私は神保町の古本屋街歩きをすると必ず立ち寄るのが山の本の悠久堂とこどもの本のみわ書房、「ピーターパン」はみわ書房で買いましたが、「ぼくの山登りいつも雨」、こちらは悠久堂では見つからなくて古本ネット販売でやっと手に入れました。この本に、小山のある公園を自分の家の庭のように走りまわって遊んだと書かれていますね。先日帯広に行く機会があったので雪景色の小山を写してきました。

O もっと高かったような気がしますが、この写真で見ると随分低い小山になってますね。

M 防空壕を残した小山で今は「さかえ公園」という名の公園になっていますが、山の周りを少し盛土しているのと、子供目線だったのでもっと高く記憶しているだけかもしれませんね。小山を十勝会館・公民館・商工会議所の建物が取り囲んでいましたが、写真に写っている高い建物が北海道新聞社の帯広支社で商工会議所跡地に建っています。

O 商工会議所の隣が公民館でその裏にある図書館に挟まれてぼくの家があったけど、父親が市役所職員だったので市役所の官舎だったのかな…。小山のある公園でも遊んだけど、公民館・図書館の横で十勝会館の裏庭にあった角の公園、周りが高い木に囲まれて窪地になっているこっちの公園でもぼくはよく遊んだな。木から木へロープ張って、ターザンごっことかね。

M あの公園は、窪地が十勝平野で高いところが日高山脈、十勝の地形をなぞって造ってあると云われていましたね。

O その西側の方に広がっていた麻工場と皆が呼んでいた積みわらが並んでいた草地、この辺りも僕の遊び場で、積みわらに飛び込んだりもぐったりして遊んだ記憶もありますね。

M 雪が降ったら小山に子供が大勢集まってスキーやソリ遊び、町内会の名前が「十公町内会」、公民館がある十丁目の町内会という意味だと聞いていましたが、子供の頃の遊び場環境から今につながる色々な影響を受けたような気がします。

O あの頃は子供が沢山いて、自然の中でずいぶん遊んだのですよね。

M 十勝会館・公民館での行事が色々あって、結構子供向けのもありました。絵画教室で写生を教えてくれたのが後に帯広を代表する風景画家になった能勢先生、このことで絵が好きになり、図書館も遊び場だったので本好きになりました。小野寺さんのお父さんは劇団を主宰されていて公民館で活動されていました。

O アマチュア劇団を始めて取り組んでいたのを、小学校のころからずっと見ていましたから父親からの影響は大きかったと思います。

M そしてもう一冊の本の「ピーターパン」の話です。その劇団「新人座」が十勝会館で上演するため公民館で練習していました。昼間働いている人が夜練習するので、子役は近所の子供たちが誘われて参加していましたね。私も小学生の時誘われて昭さんの弟さんの浩クンとの兄弟役(ジョンとミカエル)で出ました。昭さんはこの時はもう中学生だったと思いますが何の役だったか古本屋で買ったこの本を読んでも思い出せません。覚えておられますか?

O ウーン?全然覚えていませんね~(笑)。オヤジからはとくに直接何かを教わったりはしませんでしたが、中学で入って演劇部で劇と演劇の違いを教えてもらったかな、スタッフや俳優がいての構図を教わって…。なぜ俳優になったよく聞かれますが、中学・高校時代に将来の道として俳優になることを考えた。子供の頃は人見知りだったんです。人の前で発表するのも恥ずかしかった。引っ込み思案だったから、舞台の上で普段できない人の前で声を出すとかできることが、俳優を目指した理由だったと思います。

M そういえば、三条高校に入学した時、クラブ活動の勧誘で、演劇部の部長だった小野寺さんに入部を進められました。同じ十公町内会の別の先輩からは、煙草で部室を小火で焼き廃部になっていたラグビー部を復活するのを手伝えと勧められて、こっちの方が変わっていて面白いかなと選んでしまいました。演劇部の卒業公演は、十勝会館での「夕鶴」でしたよね。

O そう、卒業公演だったかな? 「夕鶴」のことは今でも良く覚えています。

M 高校卒業後、小野寺さんは舞台俳優を目指して演劇の世界へ。上京されたばかりの下積み時代ことも、この本の「俳優への山登り」という章で書かれています。

「役者人生と単独行の山」

O 高校卒業して東京の俳優研究所に1年通って、卒業公演で注目されたらしい。モダンダンスの成績は悪かったが、他は良かったからすぐに劇団に入れた。でもその劇団は地方公演ではギャラが出たが東京公演はギャラなし、苦しかったですね。でも、はじめてTVに出たのが25歳で、意外と下積みは短い方だったと思います。ふつう10年といわれてるから。

M TVの「太陽にほえろ」、新聞では殿下と呼ばれることに抵抗があったと話されていますね。

O 「太陽にほえろ」は28歳のときからで8年やりました。その後も「殿下」と呼ばれて、はじめはいやだったなあ、終わった役の印象をいつまでも引きずるみたいで…。竜雷太さんなんかいまだに殿下と呼ぶ(笑)。今でもよく小野寺ではなく殿下と声をかけられますが、やっと50を越えてからですよ、そう呼んでもらうのもいいかと思うようになったのは…。

M 皇族でなくて「殿下」と呼ばれるのは、日本国中探しても小野寺さんだけでしょうから、スゴイことですよね。新聞には、山登りを始めたのは52歳を過ぎてからと書かれていて、きっかけはTVの旅番組で九州霧島連山の韓国岳に登ったことと話されています。

O 山は52歳ではじめて、54歳のときにこの本「ぼくの山登りいつも雨」を書いた。韓国岳は登り1時間くらいの山で、雨の中での頂上でのおにぎりだけが思い出なんだけど、何だかいいなあと思って…。

M 本の中でも、韓国岳を登ったのを機に、突然のように山登りに興味を持って登山入門書・ガイドブックを読みあさったと書いていますね。

O それで、高校生のとき日高山脈の山に友だちに連れられていったことを思い出して昔の写真も探したりしてね。

M その写真が本に載っていますね、テントを張った前での高校時代の登山姿の写真が…。私の最初の山も日高山脈で「剣山」、時間が決まっていて頂上まで行くのも途中で戻るのも自由という、三条高校2年生全員参加の学校登山という行事でした。 本の帯には「山に夢中 山の楽しみはひとり歩きにかぎる」とありますが、単独行へのこだわりはどのよう始まりましたか?

O 山に夢中になり始めた時は丁度仕事が忙しい時期だったから、自宅に近い丹沢で、どの山から登ったらいいかとか、ガイドブックで調べて夏も冬もいつも一人で登っていました。仕事はみんなで、とくに芝居・ドラマは仲間で作り上げていくチームワークや協力や思いやりが必要だし、撮影ロケはグループでそれも楽しいけれど、山にまで行ってそれはしんどいかなあって…。

M 私は、松本・長野で過ごした大学時代は山に囲まれていたので、気が向いた時に一人で出かける単独行でした。卒業して住宅公団に入った最初の職場が、入居が始まる前の多摩ニュータウン、若者が多い職場で、山仲間でワンダーフォーゲル同好会をスタートさせました。それから単独行は減って仲間と一緒に登ることが多くなりました。

O それに50過ぎてプライベートにまで気を使ったり使われたりするのも面倒くさい。一人だと好きな時に好きな山に…一人だと自由に気楽に山に行けるから…。次はどこの山にしようかと地図を見ながら山の計画をたてて、計画とおりに登って楽しいことや苦しいことも独り占め…。

M むかしは天幕場でランプ囲んで山のうたなど歌いましたが、今日はワンゲル同好会自家製の山のうたの本、この中で私の1番好きな歌が短い詩の「一人の山」です。単独行の小野寺さんにぜひお伝えしたいと思い、そのコピーと時代物のガリ版刷り元本をお持ちしました。単独行を続けるうちに、深田久弥さんの「日本百名山」に出逢うわけですね。

O そうです。「百名山」と「百名山の登り方」なんて本を買ってきて並べて見ながら、登る順番など色々と考えて続けています。今ちょうど百名山60迄登りました。

M ワンゲル同好会設立15周年記念誌もお持ちしました。スタートから15年間の活動が1番盛んだった時期、バライティに富んだ活動の報告書で同好会の百名山踏破地図も載せています。小野寺さんの書かれた本のタイトルが「僕の山登りいつも雨」で、自分は山男でなくて雨男だと云っていますが(笑)、その後の百名山登山でもそれは続いているのですか。

O BSフジで絶景百名山という番組でナレーションの仕事だったけど、その時は4つくらい登ったかな、白山の時は降りてきたらだんだんと晴れてきた。白馬はピーカンで、徳峠は朝日がよかったね。 雨飾山はダメだった。全体では3割晴れればいいって感じかな…。

M 海外の山は北ボルネオのキナバル山に登られて、本のあとがきには次の目標はキリマンジャロと書かれていますがもう登りましたか。もし未だだったら参考にと思って、ワンゲル20周年記念登山で1994年の正月に登った時の記録本を持ってきました。

O キリマンジャロを目標にしてたが、もう登れないだろうね いま週2日(火・水)は大阪で大学の授業があるからプライベートで長期の山へは行けないんですよ。キリマンジャロには市毛良枝さんが登っていますが、彼女は田部井さんの役をやってから山に登るようになった。それまでは全くインドアの人だったんですよ。

M キリマンジャロ以来節目の年には海外の山に登ることにしていて、次に台湾の玉山に登り、3年前のワンゲル40周年記念で登ったのがミャンマーのビクトリア山、これがきっかけになって設立したのが「ふろんてぃあタウン工房」です。今作成中のマップをお持ちしました。ミャンマー中西部の山で標高3053M、御嶽山とほぼ同じ高さなので二つの山を裏表に印刷してあります。

O 一昨年の御嶽噴火は土曜日でしたが、ぼくはその10日前に御嶽山に登り、噴火の日には四阿山の山頂にいました。実は百名山の御嶽山と四阿山のどちらを先に登るか行く前に順番を考えていたんです。土曜の御嶽は混むだろうからと、先に御嶽に登ってその日は四阿山になったんですが、帰りの根子岳で若い人のスマホで噴火の映像を見せてもらってビックリ、順番が違っていたらとゾットしましたね。御嶽の日は日帰りでね、久しぶりだったから下山の長い道は苦しかったなあ、登りは目的があるから元気なんだけど・・・。百名山登山はこれからの続けるつもりでいるんだけど、残っているのは奥深い南アルプスにあるような山だから、百は無理かなと思ったりもしています。

M このマップにはストーリーマップ=語りかける地図というタイトルをつけて、マップのカタチをした本のつもりで、日本には百名山を目指した山の登り方があることを紹介しています。この先長期休暇を取れる機会が出来ましたら、キリマンジャロにもビクトリア山にもぜひお出かけください。百名山全山踏破されることを応援したいと思います。インタビューの最後はいつも、今、目指していることを次の世代にどう引き継ぐかをお話しいただいて締めにすることにしています。小野寺さんは、お父上の遺志を継いで演劇の道を目指し、今は、大阪芸術大短期大学部メディア・芸術学部学科長として、学生の演技指導なさっておられます。すでに前世代から次世代への軌道に乗っておられますが、まとめのお話をお願いいたします。

O 演劇コースを立ち上げるからと最初に大学の理事長に声をかけられた時は、ボクは実技しかできないから理論は教えられないと断ったんだけど、それでもいいからと強く誘われて引き受けてしまった。短大だから2年間で、演劇の基礎や舞台での具体的な表現などを学んで、卒業公演は本格的な劇場でプロのプロデューサーとかが見ている中で学生が演じるんです。もともと教えるのはあまり好きではなかった。こちらからあれこれ云わない性格でしたからね…。それで、若い人に芝居という自分の経験を伝える。東京に出て来て15・16期の俳優座養成所を目指したけどかなわなかった。それをバネにして次の世代に伝えられる機会にたまたま巡り合ったということかもしれませね。いま学科長として個性ある先生方をまとめる役目もあって大変ですが、自分の時間がなくなることが一番の苦痛かもしれないですね(笑)。

北アルプスの遭難が伝えられたゴールデンウイークが明け、梅雨前の夏日が続く異常気象の日本列島、東京四谷にある小野寺さんの所属事務所の会議室での、楽しい「ふるさと追想」+「日本百名山談義」でした。