TOP

ふろタンインタビュー

第11回 ふろタンインタビュー

ミャンマーとの絆「今泉記念ビルマ奨学会」
2020年1月17日のふろタン新春インタビューは、第二次世界大戦のインパール作戦に従軍し、その時の体験から1989年に今泉記念ビルマ奨学会を立ち上げた今泉清詞さん(Ⅰ)と、その奨学会の元奨学生で、今は城西大学理学部客員教授で国際教育センター副所長のティティレイさん(T)、埼玉県鶴ヶ島市の今泉会長のお宅に伺ってお二人からミャンマーとの絆のお話を色々と伺いました。(聞き手は室井理事長M)2020.1.17

語り継がれてきたインパール作戦

M ふろんてぃあタウン工房の設立は2014年6月、その翌年5月設立のミンガラバー・ユネスコクラブとはいといろと交流を図っていますが、ユネスコクラブのメンバーでもあるティティレィさんと初めてお会いしたのはその集まりでその後も時々顔を合わせています。昨年の芝増上寺のミャンマー祭りでは「今泉記念ビルマ奨学会」のテントでお会いし、次々と訪れる人たちの応対で忙しく活躍されている様子をふろタン工房の機関紙「ふろタン通信」で報告したりしています。そんなお付き合いから、インパール作戦に従軍され帰還後は奨学会を立ち上げられた今泉会長のお話をぜひお伺いしたいとインタビューをお願いした次第です。

I 私は昭和16年から軍務に服し昭和18年6月にビルマに入りました。日本が各地で敗北を重ねていた昭和19年、蒋介石は中国重慶にいて日本軍がなかなか重慶まで進めないところ援蒋ルートにはインドの連合軍から物資がどんどん補充されていつまでたっても重慶が陥落しない。だから援蒋ルートを封鎖しなければだめだと陸軍はインド東部の都市インパールを制圧し一気に活路を開こうとします。私たち新潟県の出身者を中心に編成された陸軍歩兵第58連隊は、インパール作戦の成否を左右するコヒマの激闘を戦いましたが、補給を軽視した作戦で、3か月以上もの間食糧や弾薬がほとんど届かなかった。英軍は圧倒的な物量で攻撃を加え、日本が負けて敗残兵となって退散するときは、食べるものも着るものも、何もない状態です。私たちが1日かかってやっと4、5里歩くところを、敵は車や戦車で1時間ぐらいで来ますから、いくら退却してもすぐ囲まれてしまう。するとミャンマーの人たちは、私たち敗残兵に「英軍が来るから、早くいらっしゃい」といって、寝台の下にかくまってくれるんです。英軍兵が1軒ずつ日本兵を探しにくると、「いないよ」といって追い払い、英軍兵が去った後に「いなくなったから出ておいで」といって、ご飯を食べさせてくれる。それが1人や2人ではなく、戦友たち皆が同じ体験をしたのです。日本人でもこれだけのことはできないんじゃないでしょうか。日本兵をかくまっているのを密告されたら、捕まってしまいますから。ですから、命がけでやってくれたわけです。ミャンマーに駐留した軍人32万人のうち、19万人が亡くなり、撤退ルートは白骨街道と呼ばれるインパール作戦、ミャンマーで死んでいなければならないところを、運命的に生きて帰って来ました。


M インパール作戦については2017年9月の第8回インタビューでも取り上げています。ミャンマー料理店「びるまの竪琴」のモーココさんと都市計画コンサルタント「昭和」の林さんのインタビューでしたが、「昭和」には林さんと中林さんというお父上がインパールの行軍から生還された方が二人もおられて、帰国後も色々と交流があってインパールでの出来事や思い出等を記録に収め「ビルマ戦回想録」として残していたが出版間際で他界され幻の原稿資料のままになっている話などを伺いました。
 ご子息でなくインパールの行軍を体験されたご本人からのお話をお聞きする機会を与えていただきとても感謝しています。
 戦争が終わって帰国されてからの生活は如何だったのでしょうか。

I 帰国したものの当時のことですから仕事もない、金もない、何もない、どうしたものかというということになりました。日本の国全体が食糧不足で国策としての開拓事業が行われていました。裸一貫で飛び込んだのが鶴ヶ島市の農地開拓でした。酪農から土地を元にした事業に取り組みました。
 そしてインパール作戦から約30年が過ぎた1974年、私が所属していた師団の有志から、戦友たちが19万人も戦死しているのに遺体も片付けずそのままにしている。このままでは申し訳ない慰霊祭を行おうということになりました。亡くなった戦友は、みんな現地で葬っていただいています。初めて戦友の慰霊にミャンマーを訪れました。六カ所で慰霊祭を行うのですが、ミャンマーの人たちが受け入れてくれるのか、戦争で迷惑をかけたから日本人は帰れと言われるのではないかと恐る恐るでしたが、現地に云って驚きました。慰霊祭の場所は黒山の人だかりで、住民の人たちは一緒に手を合わせて熱心に祈り食事でもてなしてくれる。私は聞きました。「あなた方はどうしてこのように私たちを迎えてくれるのですか」その答えは「私たちは子どもの頃から幸せに神は東から来ると親から教えられていました。その幸せの神は日本です」、涙が出るほど感激しました。戦死した友に安らかに眠ってもらうためにも、ミャンマーの人たちには平和で幸せになってほしいと思いました。

「今泉記念ビルマ奨学会」の活動・未来を見つめて!

M ここからはティティレィさんにも加わっていただき、「今泉記念ビルマ奨学会」の立ち上げに繋がるお話や現在の活動・未来に向かっての夢などお伺いしたいと思います。

I 1985年頃奨学金事業の財団をつくろうと在京の戦友たちと一緒に折衝しましたが三年たっても認可されません。財団にするのなら政治家を絡めておかないと難しいという人いましたが、そんなやり方は考えたくもありません。今迄の皆の努力を考えるとこのまま何もできずに終わるわけにはいきません。私は決意しました。当時の自分の総収入をつぎ込んで奨学金事業を進めることにしました。家族からは「お父さん気が狂ったの」と反対されましたが最後は了承し、ミャンマー発展の人材育成のため、日本に留学するミャンマー人学生を支援する今泉記念ビルマ奨学会が1989年に設立することができました。
 20年間ミャンマー人留学生187人に奨学金を提供してきました。毎年10名募集して一人2年間受けることができる。ミャンマーの人々から受けた恩を心に刻み戦友のためにしたこと。見返りはいらない。

T 私は1989年に来日、埼玉大大学院理工学研究科で学び奨学金を受けました。。大学院終了後日本の民間研究機関に就職、2017年から城西大学坂戸キャンパスに勤務しています。

I 20人のミャンマー人留学生が奨学金支給で毎月一回顔を合わせお互いの情報交換をするようになり、卒業して親睦団体の学友会をつくり、今では奨学会と学友会を一本化し、学友が理事長、私が会長を務めています。

T 月に1度は会長宅に集まり他の留学生と色々な話をしています。会長はいつも私たちを子供や孫のように面倒を見てくださいました。
 奨学会事業に協力している退役軍人の人たちは、皆さん90歳以上ですが過酷な戦場から帰れたのは我々に食べ物を分け与え怪我人を介護してくれたビルマの人たちのおかげ温情に対する万分に一かの恩返しだと異口同音に言います。
 奨学会は今泉会長や退役軍人の人たちが中心となって会を運営してきましたが、寄る年波には勝てず2010年からは奨学会の卒業生運営する形に変わりましたが、折りしも民主化が進み日本とミャンマーの経済交流が活発化し始めました。

M 城西大学のホームページを見ていましたら、姉妹校のヤンゴン大学で、観光旅行では味わえない体験をする研修をするという発信がされていました。

T はい。来月2月16日から25日まで、15名の学生を引率してヤンゴン大学に出かけます。21世紀はアジアの時代で特にASEAN諸国は飛躍的な発展を遂げている。日本にとってもアセアン諸国は貿易、投資、観光及び人物交流において最も重要なパートナーです。

I 鶴ヶ島市は2020年東京五輪・パラリンピックのミャンマー選手団のホストタウンになりました。平和の祭典を象徴する交流で両国の仲が深まることが私の願いです。

T 鶴ヶ島ミャンマー交流大使に委嘱されホストタウン事業に奔走しています。日本は第二のふるさと、ミャンマーを通じて日本の人たちに国際感覚を持ってもらうことも私の役割だと思っています。

M 新春インタビューですのでお年玉替わりに差し上げたいと思って、私どもで発行したフロンティアまちづくり読本とストーリーマップを持ってきました。読本はプロローグのページで竹山道雄の「ビルマの竪琴」を紹介し、ストーリーマップのビクトリア山登山ガイドマップには、登山口への分岐点にアラカン山脈・ミンダットを経てインド・インパールへと書いてあります。お二人にとって2020年が良い年でありますようお祈りいたします。

インタビューが終わり帰り支度をしていた時、今泉会長が「老兵の自戒」という自筆の書をお持ちになり頂戴することになりました。最後に書かれているのがインタビューでも話されていた「かけた情は水に流して受けた恩は心に刻んで」という言葉。大切に持ち帰って額に入れ自宅の小さな書斎兼仕事場の壁にかけてあります。穏やかな年の予感がする新春インタビューでした。