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ふろタンインタビュー

第7回 ふろタンインタビュー

ミャンマーの時の流れを想う
五月晴れならぬ夏日の暑さが続いた5月、学生が行きかう旧白山通りを歩いて向かった東洋大学の白山キャンパス、国際地域学部の研究室に岡本郁子さん(O)をお訪ねした今回のふろタンインタビューは、いきなり中学生時代の思い出話を伺う少し変わったインタビューになりました。 ( 聞き手は室井理事長M ) 2017.5.23

ビルマの時代に過ごした中学生生活

M 都市計画のコンサル仲間が5年前から集まってミャンマーのことを話し合っている「二都物語研究会」という私的研究会、今年2月の第25回のゲストスピーカーとして岡本さんに、ミャンマーの今までの農業政策について話していただきました。その時に、募集中だったビクトリア山トレッキングと麓の集落の織物技術見学を組み合わせたスタディツアーのPRチラシをお渡ししました。その後のメンバー集めが思うようにいかず想定外の単独行、UR都市機構ワンゲル同好会の古くからの仲間が行くことになったのですが、彼は22年前にヒッチハイクスタイルでミャンマーに行っている。そこでスタディするテーマを「ミャンマーの時の流れを想う」に切り替えて4月21日~30日にツアー実施、今「旅日記」をまとめているところです。
 この前の研究会で、岡本さんはビルマの時代のミャンマーで中学時代を過ごされたとお聞きしましたから、どうせ「時の流れを想う」ならビルマの時代まで遡ったほうがインパクトがあると思い、急きょインタビューをお願いすることになりました。前置きが長くなりましたがそんな訳で、過去→現在→未来の流れで、まず中学生時代のお話からお聞かせください。

O 1980~83年、父の大使館勤務で家族でビルマに行き、中学の3年間をミャンマーで過ごしました。ラングーン日本人学校に通っていましたが、幼稚部・小学部、中学部合わせて50人ほど。下級生と上級生が一緒に遊ぶ牧歌的な生活でした。
 中学部にはいると受験のため途中で帰国してしまうのですが、私は3年まで在籍し卒業しました。ラングーン日本人学校は昭和39年に開校しましたが、私の卒業証書番号は3番でした。すなわちそれだけ卒業する生徒は少なかったということです。そういうこともあって、3年まで在籍しても日本の高校を受験できるという例になってほしいということだったのでしょうか、3年生のときにはそれまでの複式授業ではなく、個人授業をしてもらうことになりました。ラングーンの当時の状況を思い出すと、車はほとんど走っておらず、家の前に牛が座っているようなかなり現在とは異なる状況でした。

M 国名がビルマ連邦共和国からミャンマー連邦共和国になったのが1989年、今日のインタビューで手元に置いて、ビルマの時代の話を伺う何か資料がないかと探して持ってきたのがこの本です。まだ「地球の歩き方」もない時代の交通公社の東南アジア観光ガイド、学生時代に貨物船でマニラ→ボルネオに行った時に買ったもので1964初版1967第9版となっていますが、軍政時代のせいかビルマのページは少なくて情報はほとんどなく、地図に書かれている都市名はラングーンとマンダレーだけです。

O 観光ビザがまだ取れない時代でしたからね。滞在しているのは駐在者か留学生という具合です。とにかく物がなく、母の話では日本からトイレットペーパーや文房具など3年分を持っていったそうです。買い物する場所もなく、ジュースなども、外国人特権で買えるお店でシンガポールから輸入されているものを買うか、あとは今もあるボジョー・アウンサン・マーケットでタイからの密輸品を買うかという具合でした。こうしたジュースも、保存の状態等の影響か缶の味が強烈にしたのを覚えています。日本の食材などが必要な際には、通常みなさんバンコクまで買い出しに行っていたようです。外食をするような店もほとんどないので、ホームパーティーの形でみなさん集まっていたようです。

M ラングーンは昔は東南アジアで最も栄えていた都市と言われていましたが、そんな首都でも物資がなかったのですか?

O そのように言われていたのは1950年代頃までの話ではないでしょうか。ネウィン政権になる前はタイよりも栄えており、大丸が進出する時にラングーンを候補にしていたのですが、政変でバンコクが選ばれたというような話を聞いたことがあります。
 父の仕事の関係で、ほかの人よりミャンマー国内の旅行は行きやすかったと思います。たとえばインレー湖ですが、当時行ったときは厳重な護衛がついてボートに乗った記憶があります。また、内戦で負傷した兵士が飛行機に一緒に乗っていたり…。インレー湖は有数の観光地として今は観光客で賑わっていますが…。
 ただ、社会主義政権ということもあり、外国人が現地の人と接触するのは必ずしも自由にはできなかったため、地元の人たちと交流する機会はなかったというのが正直なところです。それがとても残念でした。
 でも、今振り返るならば、この3年間が原体験になって将来的に発展途上国の仕事をしたいと思うようになりました。

農村の暮らしを豊かにするために!

O 1998年から2000年まで、アジア経済研究所の海外派遣員として今度はビルマでなくミャンマーでの2度目の滞在になりました。この時は1980年代前半と比べて生活環境は随分良くなっていました。赴任の際には生後10ヶ月の子どもを連れていきました。粉ミルクなどは日本から持っていきましたが、お店で入手できるものが増えていました。ちなみに、息子が最初に覚えた言葉はミャンマー語でした。ミャンマーはとても子育てしやすかったですね。子どもを連れて外出しても、だれかがふと面倒を見てくれたりして、みなで子育てしているという感覚がありました。

M 私たちの今までのミャンマーでの活動拠点は、ミャンマーで最も貧しいといわれるチン州にあるビクトリア山と麓の集落、バガンから4駆の車で悪路を走るのですが、4年前に行った時には頂上近くまで車の道が作られ始めていて、道路工事を請け負ったら家族総出で子供までが手伝っている。登山道もわき道が自在にあって荒れていました。それで翌年行った第2次隊は、山の自然を守り育てることの大切さを子供たちが学ぶようにと日本語・ミャンマー語併記で作成したこの小冊子「公園の登山道」を、ナマタン国立公園事務所に届けました。
 最初にお話しした「二都物語研」で岡本さんと初めてお会いするより前に、2012年にまとめられたJETROアジア経済研究所の報告書「ミャンマーのコミュニティ・フォレストリーと地域社会の組織化メカニズム」を研究会で話題にしています。研究会で色々な方から話題提供をしていただいていますが、ヤンゴンやティラワ、ネピドーなどでの活動が多く、地方州に関心をもっている方は意外に少ないですね。

O 私の関心は、いかに農村の暮らしに豊かさをもたらすかというところにあります。社会主義期から軍政期に移行した際に、農産物の流通が自由化されました。その政策が農村経済にあたえた影響に関する研究が最初の大きな研究テーマで、それを博士論文としてまとめました。次にフィールドを漁村に移し、エビの輸出が漁民に与える影響を、次に資源管理の問題は大事と考え一つのとっかかりを求めてコミュニティ・フォレストリーを研究するようになりました。さらにはそこから展開して、農村開発プロジェクトを実施する際に、どのような組織化が望ましいのかなどにも関心があります。

M 第1回のふろタンインタビューは、ミンガラバーユネスコクラブを立ち上げようとしていた安彦さん・小野寺さん、ユネスコクラブ設立後はヤンゴン郊外のモービー郡で、大西信吾さん達とコミュニティ・フォレストリーによる「生活の森プロジェクト」のに取り組んでおり、活動報告会なども行っています。これからも交流・連携していきたいと思っています。

O 最近は、ミャンマー農村部で以前から問題と指摘されている金融の実態についても研究をしています。このように研究の対象は変わってきていますが、農村部の人々がどういう問題に直面しているのかあるのか、その問題を解決するためにはどうしたらよいかを考えたいという部分は一貫しているつもりです。

次世代につなぎたいこと

M ミャンマーに毎年学生さんを連れて行かれているとお聞きしましたが、学生に期待すること、次世代につなぎたいことについてどのように考えておられますか?

O 毎年、学生15~6人ほどをミャンマーに連れて行っています。今年度はゼミ生、3年生の10人と4年生5人の予定です。4年生は昨年も参加している学生です。ただの旅行にならないよう、学生に調査・報告書の作成を課しています。
 これが前回の参加者が皆でまとめたレポートです。農村調査のさわりに触れるといったレベルではありますが、できるだけ学生の自主性に任せたいと思っています。レポートの執筆は学生たちで分担するのですが、皆で力を合わせてまとめあげることができたのは大きな成果だったと思います。

M これからもフィールドはやはりミャンマーですか?

O ほかの国との比較も大変関心はありますが、やはり最後のところでは現地の言葉の理解が鍵になることがよくわかってきましたので、積極的にフィールドを広げることはしていません。ミャンマーはまさに急速な変化を遂げている最中で、ますますこれから研究すべきことがたくさんある国でもありますし…。
 学生を今のような形でフィールドに引率できるようになったのも、以前では考えられないことでした。軍政時代には、農村調査を実施する際に許可を得られたとしてもいつもこれが最後かもと思いながら行っていました。何かの具合で許可が下りなくなる可能性はいつもあったものですから。現政権になって以前に比べれば行きやすくなったとは思いますが、(観光地でない場合)地方への移動許可はあいかわらず必要です。学生引率に関しては、お世話になっているNGOさんのアレンジで訪問できています。学生が現地を訪れることで、活字で知る情報以上のことを直接見聞きし、その後実際に行動できる人がたくさん出てくるといいですね。昨年、NGOさんのところでインターンシップを行った学生がいますが、帰国後もミャンマー関連の就職を考えているようです。また、同じようにインターンシップを希望する学生もでてきており、少しずつ繋がりが出来てきています。
 本学にはミャンマーからの留学生もいますが、ミャンマーの学生はミャンマーの研究をしている私の研究室にはあまり関心がないようです。でも、日本の学生が日本のことをあまり知らないことがままあるように、ミャンマーの学生も自分の国のことは意外と知らないことが多いようです。特に農村部のことを研究している人はミャンマーでもそう多くはありませんから、ミャンマーの学生に私が伝えられることは少しはあると思います。

M 私たちが目指しているのは日緬双方向交流型の新しいスタイルのスタディツアー、今のところはまだ日本からミャンマーへの一方通行ですが、いつかミャンマーからも来てもらい、山と共に生きる地域づくりに取り組む交流ネットワークの形成を目指したいと思っています。
 2015年11月の第3次隊はビクトリア山登山マップ作製の総仕上げ調査隊、自然を愛する旅行者を多くの国から迎え入れようと日本語版と英訳版セットにした「ストーリーマップ」と名づけた地図が完成、今回のスタディツアーで、今度は国立公園事務所だけでなく、宿泊施設のロッジにも届けてきました。どのように活用されるかまだ先は読めませんが…。
 東洋大学ニュースに書かれていた、岡本先生として学生たちに呼びかけた「トラブルや失敗を糧にするしなやかさが大切、思い通りにならないからこそ面白い」という言葉、今の私達のNPO活動を思い浮かべながら大変共感を覚えました。今日はどうもありがとうございました。

9月に入るとゼミ生を連れて今年度のミャンマー研修に出かける岡本さん、その準備で忙しい中でのインタビューでしたが、研究室で見せていただいた前回の研修報告書の表紙の写真には、楽しそうな若者の顔がたくさん写っていました。